リアリティ
2010-12-11


これまで、こういうことは何度もあったのだけど、
大きな事件や、政治的な出来事が起こると、周りの人も、それに関してわぁっと騒ぎ出して
そういう時、個人個人のリアリティが垣間見えて、興味深いなあと思っています。

みんなそれぞれ、「現実」を日々生きている。でもその「現実」って
実は全部幻なんだよね。自分が思ってる現実って、実は思った通りには存在していない。
各々の思考や精神を通してみている、オリジナルの幻。
例えば今、隣に居る人・・・家族でも、通りすがりでも、誰でもいい。1人なら自分でもいい。
その人はこんな人だ、と自分で思ってるかもしれないけど、実は自分が思った通りの人じゃない。
誰だって、自分だって、自分が思ったとおりの人なわけがない。もし思った通りになってるなら
その人はそれこそ全知全能の神みたいなもんなんじゃなかろうか。
物や事だってそう。思った通りじゃないからこそ意外な使い道や、新しい発見ってのがあるはず。

そんなワケで、自分たちが見ている「現実」は、リアリティという幻なわけなんだけど
この幻を排除していくとどうなるか・・・排除すると、「存在」が残る。物体のことじゃなくて、存在。
一瞬の感情や、大きな集団意識のうねりや、人との絆とか、ある、って状態はもう存在。
この存在ってのは、否定したら消えるかというと、消えない。隠しても殺しても忘れても、消えない。
あるって言う時点で消えないというか、もう消せない。

なので、人は存在を、現実感という幻を通して見ていることになるのだけど
困ったことに、人はよく自分が幻を見ているんだということを忘れる。
下手すると死ぬまで忘れっぱなしの人もいたりする。
そういう時、人は全ての存在を思い通りにしないと気が済まなくなっている。
思い通りにならないものは、消えてしまえと、否定する。消せるわけないのに、否定する。
大抵の不幸や、人が傷つくようなことは、ここから始まっているように思う。

それを回避するには、認めるしかないと思う。お互いの幻を肯定しあい、時に理解さえ試みる。
我慢や無視でなく、肯定する。ただ、肯定するにはそれなりの労力が要る。
肯定を阻む自分の原因を自分の中に探し、究明し、認めないといけない。
それは癒えない瘡蓋をはがして傷口を広げ、触ったり眺めたりするような苦痛を伴う。
そんな事をするよりも否定するほうが、圧倒的に楽なのだ。

だけどみんな、楽をするなよ!なんて偉そうなことは、私にはとても言えないけど
すべての人が幻を見ている事を、できるだけ忘れないでいたい。
そしてその上で、誰かと幻を交ぜあっていきたい。コミュニケーションって、幻の交ぜあい。
否定を振りかざす、あるいは恐れる上での幻のやり取りは、違うよね。

[にっき]
[箱庭]

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